家康公検定2022 お勉強にっき

家康公検定2022に向けて、のんびりとお勉強しています。

33夜目、「おわりに」・裏表紙

 

「家康公検定2022」の副読本で

お勉強しております。

のんびりと。

 

33夜目は、

「おわりに」と裏表紙

です。

 

1夜目が表紙でしたので、

裏表紙も確認します。

 

 

家康公の一般的な評価は、

・海道一の弓取り

・優れた戦国武将

・265年に及ぶ(1603年〜1868年)

 パクス・トクガワーナ(徳川の平和)の礎を

 築いた偉大な政治家

ですが、

今回はさらに、

・卓越した外交家

であったことを勉強しました。

 

 

徳川家康は、

世界に広く門戸を開き、

異文化との交流や、交易の促進により

日本の経済的発展を目指しました。

 

同時に、

植民地化政策を推進する西欧列強の進出という

未曾有の危機から

日本の独立を守っていきました。

 

 

 

応仁の乱(1467年)から

大坂夏の陣(1615年)に至る

150年の戦乱の時代。

 

その真ん中に家康は生まれ(1542年)、

75年の生涯をかけ、戦乱の世を収めました。

 

その人生は、

 

・鉄砲伝来(1543年)

キリスト教伝来(1549年)

から始まる

日本と西洋の出会いとともに歩んでいきました。

 

 

織田信長豊臣秀吉たちの

南蛮貿易や海外政策を学び

 

断絶した朝鮮・明との講和を進め、

全方位・善隣友好の外交政策を展開したのでした。

 

 

 

次ページには、

「メルカトル世界図1569」

「メルカトル世界図1587」

が載っています。

 

ネーデルランドの地質学者メルカトルが、

1569年(家康28歳:三河遠江の2カ国の大名に)

1587年(家康46歳:前年に秀吉に臣従)

に制作したものです。

どちらも、日本は描かれていますが、

正確な姿ではありません。

 

 

この副読本の扉絵には

坤輿万国全図(こんよ ばんこく ぜんず)」

(1602年(家康61歳)作成)

が使われており、

それとの対比から

世界の広がりを示唆しているのでしょうか。

 

 

 

 

裏表紙には、

 

「人の一生は〜」から始まる

家康公遺訓が載っています。

 

意訳しますと、

 

 

人の一生は、重荷を背負って遠い道を行くようなものだ

 

だから、急ぐべきではない

 

不自由が普通なのだと思えば、不満は生じない

 

欲が湧いたら、貧しさに苦しんでいた頃を思い出すこと

 

我慢することは、無事に長く安らかに生きるための基本である

 

怒りは敵と思え

 

勝つことしか知らずに

 

負けることを知らないことは危険である

 

自分の行動を反省し、人を責めてはいけない

 

何事も、有り余るより、足りないほうが良い

 

 

と、人生の教訓ですが、

ビジネスでも使われているようです。

 

 

下には

 

「天下は天下の天下なり」

 

天下はすべての人のものである

 

これも、家康の遺言だと言われています。

 

 

そして、徳川の紋、

三つ葉葵で締めています。

 

 

 

以上です。

今夜で、33夜目にして、

ブログを使っての

副読本の精読が終了しました。

 

試験までは、あと数日ありますので、

数日間かけて、

副読本片手にブログを読み返して見ようと思います。

 

 

 

 

受験するすべての人に幸運が訪れますように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

32夜目、家系図

 

「家康公検定2022」の副読本で

お勉強しております。

のんびりと。

 

32夜目は、「家康公を取り巻く家系図

です。

 

ここも出題範囲なんでしょうか。

そう思って、確認していきます。

 

 

徳川家康のご先祖さまは、

 

松平氏初代当主 松平 親氏(ちかうじ:生没不詳)から

始まります。

松平郷(豊田市)からスタートです。

 

2代目 松平 泰親(やすちか:生没不詳)

岩津(岡崎市)に進出します。

 

3代目 松平 信光(のぶみつ:1404年〜1488年)

一族を各地に分立させ、松平氏発展の基礎を固めました。

 

4代目 松平 親忠(ちかただ:1438年〜1501年)

大樹寺を創建。安城松平家初代。

 

5代目 松平 長忠(ながただ:1455年〜1544年、長親(ながちか)とも)

安城松平家松平氏の惣領になりました。

法名は道閲(どうえつ)。

 

6代目 松平 信忠(のぶただ:1490年〜1531年)

三河物語』では、暗愚で残忍な当主とも

 

そして、

家康の祖父

7代目 松平 清康(きよやす:1511年〜1535年)

岡崎城に移る。勢力拡大。

「守山くずれ」で松平氏混乱

 

家康の父

8代目 松平 広忠(ひろただ:1526年〜1549年)

今川氏と織田氏に挟まれ苦難の連続。

 

家康の母

於大(おだい:1528年〜1602年)

水野忠政(尾張緒川城主・三河刈谷城主)の娘

 

 

 

 

家康の正室

築山殿(つきやまどの:生年不詳〜1579年)

今川氏の一族、関口義弘の娘

 

築山殿との子

 

長男 信康(のぶやす:1559年〜1597年)

織田信長の娘、徳姫と結婚

 

長女 亀姫(かめひめ:1560年〜1625年)

三河新城城主 奥平信昌と結婚

 

 

 

側室 於愛(西郷の局)の子

 

三男 秀忠(ひでただ:1579年〜1632年)

2代将軍

 

四男 忠吉(ただよし:1580年〜1607年)

東条松平家西尾市吉良町)の跡目を相続

 

 

 

混乱してしまうので、

他の側室とその間に生まれた子は省略します。

 

家康の子は、十一男、五女となっています。

 

 

 

2代将軍 徳川 秀忠の正室

 

於江(おごう:1573年〜1626年)

浅井長政の娘(三女)

 

 

於江との子

 

長女 千姫(せんひめ:1597年〜1666年)

豊臣秀頼と結婚。後に、本多忠刻と再婚

 

二女 珠姫(たまひめ:1599年〜1622年

前田利常と結婚

 

三女 勝姫(かつひめ:1601年〜1672年)

松平忠直と結婚

 

四女 初姫(はつひめ:1602年〜1630年)

京極忠高と結婚

 

二男 家光(いえみつ:1604年〜1651年)

3代将軍

 

三男 忠長(ただなが:1606年〜1634年)

幼少の頃、兄の家光と次期将軍を座をめぐる争いがあった。

通称、駿河大納言

 

五女 和子(まさこ:1607年〜1678年)

後水尾天皇の皇后。

明正天皇の生母。

 

 

 

2代将軍 徳川 秀忠の側室

 

於静(おしず:1584年〜1635年)

秀忠の乳母(大姥局)に仕え、秀忠に見初められる。

 

 

於静との子

 

四男 正之(まさゆき:1611年〜1673年)

保科氏の養子に

会津松平家初代

 

 

 

 

4代将軍 徳川 家綱(いえつな:在任29年:1651年〜1680年)

  武断政治から文治政治

 

5代将軍 徳川 綱吉(つなよし:在任29年:1680年〜1709年)

  館林家

  天和の治  

  生類憐れみの令

 

6代将軍 徳川 家宣(いえのぶ:在任3年:1709年〜1712年)

  甲府

  新井白石

 

7代将軍 徳川 家継(いえつぐ:在任3年:1713年〜1716年)

  4歳で将軍に

  新井白石

 

8代将軍 徳川 吉宗(よしむね:在任29年:1716年〜1745年)

  紀伊

  享保の改革

  大御所政治(1745年〜1751年)

 

9代将軍 徳川 家重(いえしげ:在任15年:1745年〜1760年)

  田沼意次

 

10代将軍 徳川 家治(いえはる:在任26年:1760年〜1786年)

  田沼意次を老中に

 

11代将軍 徳川 家斉(いえなり:在任50年:1787年〜1837年)

  一橋家

  松平定信寛政の改革

  大御所政治(1837年〜1841年)

  大塩平八郎の乱(1837年) 

 

12代将軍 徳川 家慶(いえよし:在任16年:1837年〜1853年)

  水野忠邦天保の改革

  ペリー来航(1853年)

 

13代将軍 徳川 家定(いえさだ:在任5年:1853年〜1858年)

  日米和親条約1854年

  阿部正弘安政の改革

 

14代将軍 徳川 家茂(いえもち:在任8年:1858年〜1866年)

  紀伊

  安政の大獄 井伊直弼

  桜田門外の変1860年

 

15代将軍 徳川 慶喜(よしのぶ:在任1年:1867年〜1868年)

  一橋家

  大政奉還

  江戸幕府の終焉

 

 

以上、家系図を確認しました。

 

次は、「おわりに」と裏表紙の家康公遺訓です。

 

33夜目、「おわりに」・裏表紙 へ

 

 

 

31夜目、関連年表(後半)

 

「家康公検定2022」の副読本で

お勉強しております。

のんびりと。

 

31夜目は、

 

「家康公と世界」関連年表

の後半です。

 

巻末資料の部分ですが、

出題範囲だと思っていますので、

 

サラリとですが、

確認していきましょう。

 

◎は本文で勉強した事柄です。

 

 

いよいよ、徳川家康の外交が始まります。

 

1598年(慶長3:家康57歳)

  ◎豊臣秀吉、死去

  ◎徳川家康、朝鮮からの撤退を命ずる

  ◎フランシスコ会宣教師ジェズスを通じ、

   フィリピン総督に対し、

   スペイン商船の浦賀寄港による交易の開始と、

   造船・航海技師の派遣を要請

1599年(慶長4:家康58歳)

  ・京都伏見で日本初の本格的な木版活字出版(伏見版)を開始

1600年(慶長5:家康59歳)

  ◎オランダ商船リーフデ号が豊後(大分県)に漂着

   イギリス人のウィリアム・アダムス、

   オランダ人のヤン・ヨーステン

   大坂城で引見し、外交顧問として召し抱える

  ・関ヶ原の戦い

  ◎イギリスが東インド会社設立

1601年(慶長6:家康60歳)

  ・安南国(ベトナム)、呂宋(フィリピン)と外交関係樹立

  ・五街道整備(宿駅、伝馬制度、一里塚の設置等)

1602年(慶長7:家康61歳)

  ・太泥国(タイ)に通商を認める

  ・呂宋に書を送り、メキシコとの通商を要請

  ・安南国、交趾国(ベトナム)への渡航朱印状

  ・フィリピン総督に、日本でのキリスト教布教を禁じる書を送る

  ◎オランダ東インド会社設立

1603年(慶長8:家康62歳)

  ・柬埔寨国(カンボジア)に通商を認める

  ・征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く

  ・孫娘 千姫が、豊臣秀頼に嫁ぐ

1604年(慶長9:家康63歳)

  ◎糸割符制度

  ◎松前藩に、蝦夷地での交易独占を認める

  ◎朱印船貿易による東南アジア外交

  ・秀忠の二男 家光誕生

1605年(慶長10:家康64歳)

  ◎朝鮮国使の僧 惟政(ユジョン:松雲大師)孫文或と伏見城で会見

   日朝国交回復のきっかけをつくる

  ・藤原惺窩の門弟 林羅山を登用

  ・将軍を三男 秀忠に。自身は大御所として政治を行う

1606年(慶長11:家康65歳)

  ・奇楠香(きなんこう:伽羅きゃら:香木)を求め、

   東南アジア諸国の国王に朱印状を発給する

  ◎金地院崇伝と林羅山に命じ、

   日本初の銅板活字による出版(駿河版)を開始

1607年(慶長12:家康66歳)

  ・駿府城に移り大御所政治を行う

  ◎第1回朝鮮通信使「回答兼刷還使」来日。国交回復

 

1609年(慶長14:家康68歳)

  ◎薩摩藩の島津氏に、琉球侵攻を許可

  ◎平戸にオランダ商館設置

  ◎フィリピン総督ドン・ロドリゴが乗る

   サンフランシスコ号が上総国に漂着

  ◎島原藩有馬晴信朱印船

   マカオでトラブルになり

   日本人水夫60名ほどが殺害される

1610年(慶長15:家康69歳)

  ◎ドン・ロドリゴを、ウィリアム・アダムスが建造した

   洋式帆船でメキシコへ帰す

  ◎琉球王 尚寧が、薩摩藩島津家久に伴われ

   大御所と将軍に会見する

  ◎有馬晴信が、家康の許可を得、

   長崎でマカオ司令官ペソアへ報復する

   岡本大八に賄賂を騙し取られる

1611年(慶長16:家康70歳)

  ◎メキシコから答礼使ビスカイノが来日

   西洋時計などの返礼品を受け取る

   交易交渉は不調

1612年(慶長17:家康71歳)

  ◎岡本大八事件

  ◎幕府直轄領にキリスト教禁止令

1613年(慶長18:家康72歳)

  ◎イギリスが平戸に商館開設。ジェームス1世から書簡

  ◎全国にバテレン追放令

  ◎仙台藩伊達政宗が、支倉常長らを欧州に派遣

   (慶長遣欧使節

1614年(慶長19:家康73歳)

  ◎キリシタン大名 高山右近をはじめ、

   宣教師や教徒を国外に追放

  ・方広寺(京都)鐘銘事件

   「大坂 冬の陣」

1615年(慶長20・元和元:家康74歳)

  ・「大坂 夏の陣」豊臣家 滅亡

   →改元「元和」に

   「元和偃武(げんわえんぶ)」

    武を収め、平和の始まりを意味する

  ・「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」「一国一城令」等制定

1616年(元和2:家康75歳)

  ・太政大臣に任じられる

  ・4月17日 徳川家康 亡くなる

  ・南光坊天海の働きかけで、「東照大権現」の神号

  ◎キリシタン禁令を強化

  ◎明国以外の来航船を、長崎・平戸に限定する

1617年(元和3)

  ・一周忌に日光東照社へ改葬

  ◎第2回朝鮮通信使「回答兼刷還使」428人が来日

 

 

1623年(元和9)

  ・徳川家光が3代将軍に。秀忠は大御所に

  ◎イギリスが日本との交易から撤退

1624年(寛永元)

  ◎スペインと断交

  ◎第3回朝鮮通信使「回答兼刷還使」

 

 

1630年(寛永7)

  ◎シャム国アユタヤの山田長政が暗殺され

   日本人町が焼き払われる

1631年(寛永8)

  ・奉書船制度の開始

   海外との交易は、朱印状に加え奉書が必要に

 

1633年(寛永10)

  ・奉書船以外の海外渡航禁止

  ◎海外にいる日本人の帰国禁止

1634年(寛永11)

  ◎第1回 琉球使節、京にて将軍 家光に謁見

1635年(寛永12)

  ◎日本船の海外渡航禁止

1636年(寛永13)

  ◎長崎の出島が完成

   ポルトガル人を出島に隔離する

  ◎明船の寄港地を長崎に限定

  ◎第4回朝鮮通信使来日

1637年(寛永14)

  ◎島原の乱 勃発(翌年鎮圧)

 

1639年(寛永16)

  ◎ポルトガル船の来航を禁止

 

1641年(寛永18)

  ◎オランダ商館を平戸から長崎の出島に移す

  ◎以後、海外との窓口を4つに限定

  

  〈家康が亡くなって25年〉鎖国体制

 

 

以上、関連年表をまとめ、時系列を整理できました。

 

次回は、一応、家系図も確認しておきます。

 

32夜目、家系図 へ

 

 

 

30夜目、関連年表(前半)

 

「家康公検定2022」の副読本で

お勉強しております。

のんびりと。

 

30夜目は、

 

「家康公と世界」関連年表

の前半です。

 

 

副読本の本文が終わり、

巻末資料に入りました。

 

ここも出題範囲だと思っていますので、

・・・・

まあ、サラリと、

時系列を整理していきましょう。

 

◎は本文で勉強した出来事です。

 

 

年表は、徳川家康生誕の50年前から始まります。

 

1492年(明応元)

  ◎スペインの援助を受けたイタリア人コロンブスアメリカ大陸到達

   〈大航海時代の幕開け〉

1493年(明応2)

  ・「明応の政変管領 細川政元が、武力で

    室町幕府10代将軍 足利義材(よしき:後の義植よしたね)を廃す。

   〈下剋上時代の幕開け〉

1494年(明応3)

  ◎トルデシリャス条約 スペイン・ポルトガルが世界を2分割

 

1498年(明応7)

  ◎ポルトガルヴァスコ・ダ・ガマ、インド航路発見

 

1511年(永正8)

  ◎ポルトガル、東南アジア貿易の拠点、マレー半島のマラッカを占領

 

1520年(永正17)

  ◎マゼラン、南アメリカ大陸南端の海峡をわたり、太平洋航路を発見

1521年(大永元)

  ◎マゼラン、フィリピンに到達、植民地化

 

1529年(享禄2)

  ◎サラゴサ条約 アジアでの植民地境界線

 

1542年(天文11:家康1歳)

  ・12月26日、岡崎城にて家康誕生

   父は、松平 8代 広忠(ひろただ)

   母は、刈谷城主 水野忠政の娘、於大(おだい)

   幼名、竹千代(たけちよ)

1543年(天文12:家康2歳)

  ◎種子島に鉄砲伝来

1544年(天文13:家康3歳)

  ・母 於大が、離縁される

   祖父 清康の妹、於久に養育される

 

1547年(天文16:家康6歳)

  ・今川氏の人質として移動中、田原で織田氏の許に送られる

 

1549年(天文18:家康8歳)

  ◎フランシスコ・ザビエル 鹿児島に上陸 

   キリスト教伝来

  ・父 松平広忠 亡くなる

  ・今川軍が、織田側の安城城を攻略

   人質交換で、家康は今川氏に

1550年(天文19:家康9歳)

  ・平戸にポルトガル船が入港

   領主 松浦隆信がキリスト教を保護

 

1555年(弘治元:家康14歳)

  ・今川領の駿府にて元服

   松平元信(もとのぶ)と名乗る

   烏帽子親は今川義元

 

1557年(弘治3:家康16歳)

  ・今川氏の一族 関口親永(ちかなが)の娘、

   後の築山殿(つきやまどの)と結婚

1558年(永禄元:家康17歳)

  ・初陣 織田方の三河寺部城(豊田市)を攻める。

  ・祖父 清康の武名にあやかり

   松平元康(もとやす)に改名

1559年(永禄2:家康18歳)

  ・長男 松平信康(のぶやす)誕生

1560年(永禄3:家康19歳)

  ・桶狭間の戦い 今川氏からの独立のきっかけ

  ・大樹寺住職 登誉上人(とうよ じょうにん)から

   「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」

   の言葉を受ける

 

1563年(永禄6:家康22歳)

  ・長男 松平元康が、織田信長の娘と婚約

  ・源氏の頭領 源義家の武名にあやかり

   松平家康に改名

  ・三河一向一揆が起こる

1564年(永禄7年:家康23歳)

  ・三河一向一揆を鎮圧 西三河平定

 

1566年(永禄9年:家康25歳)

  ・三河一国を平定

   朝廷より従五位下三河守に任ぜられ

   徳川家康を名乗る

 

1568年(永禄11:家康27歳)

  ・武田信玄駿河侵攻に合わせ、遠江に侵攻

1569年(永禄12:家康28歳)

  ・今川氏真降伏 三河遠江 2カ国の大名に

1570年(元亀元:家康29歳)

  ・岡崎城を長男 信康に譲り

   浜松城に居城を移す

  ・近江での姉川の戦い

1571年(元亀2:家康30歳)

  ・スペインがフィリピンの本格支配を始める

1572年(元亀3:家康31歳)

  ・三方ヶ原の戦い武田信玄に惨敗

   「しかみ像」の逸話

 

1575年(天正3:家康34歳)

  ・長篠・設楽原の戦いで武田勝頼に勝利

 

1579年(天正7:家康38歳)

  ・側室 西郷の局が、三男 秀忠を出産

  ・信康・築山事件

 

1582年(天正10:家康41歳)

  ◎天正遣欧少年使節

  ・武田氏滅亡 信長より駿河を拝領 3カ国の大名に

  ・本能寺の変 伊賀越え

  ・甲斐・信濃を手に入れ、5カ国の大名に

 

1584年(天正12:家康43歳)

  ・小牧・長久手の戦い

  ・羽柴秀吉の養子として、二男 秀康を差し出す

 

1586年(天正14:家康45歳)

  ・関白 豊臣秀吉に臣従する

  ・駿府城に居城を移す

1587年(天正15:家康46歳)

  ◎豊臣秀吉、朝鮮に服従するよう、対馬国の宗氏に交渉を命じる

  ◎豊臣秀吉、九州統一

  ◎豊臣秀吉バテレン追放令を出す。

1588年(天正16年:家康47歳)

  ・イギリスがスペインの無敵艦隊を破る

  ◎豊臣秀吉琉球王国に入貢させるよう、島津氏に命じる

 

1590年(天正18:家康49歳)

  ・豊臣秀吉、小田原攻め 北条氏降伏

  ・徳川家康、関東に移封(江戸打入り)

   8月1日(八朔)江戸城入城

1591年(天正19:家康50歳)

  ◎豊臣秀吉ポルトガル領インド副王に書簡を作成

  ◎豊臣秀吉、フィリピン総督に服従要求の書簡を出す

  ・徳川家康豊臣秀次とともに奥州出陣(奥州再仕置)

1592年(天正20、文禄元:家康51歳)

  ◎豊臣秀吉朝鮮出兵文禄の役

  ◎豊臣秀吉、フィリピン総督に2度目の書簡

  ・徳川家康朝鮮出兵に伴い、肥前名護屋城

1593年(文禄2:家康52歳)

  ◎明との講和交渉開始(文禄の役終戦

  ◎豊臣秀吉、フィリピン総督に3度目の書簡

  ◎豊臣秀吉、高山国(台湾)に服従要求の書簡

1594年(文禄3:家康53歳)

  ・徳川家康儒学者の藤原惺窩(ふじわら せいか)から

   『貞観政要(じょうがんせいよう)』を受講 治世を学ぶ

 

貞観政要』とは

 唐の太宗(2代皇帝:在位626年〜649年)の政治に関する言行を記録した書物。

古来から帝王学の教科書とされた。

 

藤原惺窩(1561年〜1619年)

 近世儒学の祖といわれる。

豊臣秀吉徳川家康儒学を講義した。

家康から仕官を要請されたが辞退し、

門弟の林羅山を推挙した。

 

藤原惺窩は、副読本の表紙の船に乗っています。

これで船に乗っている人たち全員確認できました。

 

 

1596年(文禄5、慶長元:家康55歳)

  ◎サン・フェリペ号事件

  ◎豊臣秀吉、再度禁教令

1597年(慶長2:家康56歳)

  ◎明との講和交渉が決裂し、再度朝鮮出兵慶長の役

  ◎長崎でキリスト教徒26人を処刑(26聖人大殉教)

 

 

今夜はここまでです。

 

次回は、年表の後半、豊臣秀吉が亡くなって、

徳川家康の外交が始まるところからです。

 

31夜目、関連年表(後半) へ

 

 

 

29夜目、四つの口

 

「家康公検定2022」の副読本で

お勉強しております。

のんびりと。

 

29夜目は、

 

「幕府の外交政策

2.海外との4つの窓口(四つの口)

です。

 

 

江戸幕府は、鎖国体制の下、

海外との交流を4つの窓口に限定していました。

 

対馬藩(宗氏)では、朝鮮国 (対馬口)

薩摩藩(島津氏)では、琉球王国 (薩摩口)

長崎(長崎奉行)では、オランダ東インド会社と中国商人 (長崎口)

松前藩松前氏:北海道南西部)では、アイヌ民族 (松前口)

 

と、「四つの口」にそれぞれ担当が決まっていました。

 

朝鮮国と琉球王国は、

国交を結んだ

「通信」の関係

 

「通信」とは親善友好の意味を持っています。

 

オランダや中国とは、

正式な国交を結ばず、交易のみの

「通商」の関係

 

蝦夷地(北海道と北方の島々)に住む

アイヌ民族とも

「通商」の関係でした。

 

 

Google Map

 

松前口についても、

家康の時代にはじまっています。

 

1604年(慶長9年:家康63歳)、

家康が、

松前藩松前慶広(まつまえ よしひろ:1548年〜1616年:57歳)に

蝦夷地での交易独占権を認める

黒印状を発給しました。

 

これにより、

幕府は、

蝦夷地との交易を、松前藩を介して

管理掌握することが可能になりました。

 

 

鎖国体制の中、

幕府は、

対馬藩薩摩藩長崎奉行松前藩から

交易相手の情報を得ていました。

 

長崎では、

オランダ商館長(カピタン)に対し、

オランダ船入港のたびに

最新の世界情勢についての報告書を

長崎奉行に提出させています。

 

この報告書は、

『オランダ風説書(ふうせつがき)』

と呼ばれ、

 

1641年(寛永18年:3代将軍 家光38歳)、

オランダ商館が、長崎の出島に移されてから、

 

1857年(安政4年:13代将軍 家定34歳)

開国直後まで、

 

217年間に、300通以上が提出され、

幕府の重要な海外情報源となっていました。

 

1853年(嘉永6年:12代将軍 家慶61歳)の

ペリー来航も、

この報告書により、

事前に知ることが出来ていました。

 

 

以上、副読本の本文部分が終わりました。

 

次回は、「家康公と世界」関連年表の前半です。

 

30夜目、関連年表(前半) へ

 

 

 

28夜目、閉じられていく外交

 

「家康公検定2022」の副読本で

お勉強しております。

のんびりと。

 

28夜目は、

 

「幕府の外交政策

1.江戸幕府外交政策

です。

 

 

江戸幕府は当初、

ポルトガル・スペインとの交易のため

キリスト教の布教を容認していました。

 

1609年(慶長14年:大御所 家康68歳、将軍 秀忠31歳)

オランダとの交易が開始されました。

 

オランダはプロテスタント(新教)国で、

交易と布教の分離が可能でした。

 

1612年(慶長17年)

岡本大八事件が契機となり、

幕府直轄領に禁教令を出し、

 

翌1613年(慶長18年)

全国に禁教令を広げます。

 

また、この年、

イギリスが平戸に商館を開設し、

交易が開始されました。

 

イギリスもオランダと同じく

プロテスタント(新教)国で、

交易と布教の分離が可能でした。

 

 

こうして、

交易を維持しつつ、

キリスト教を取り締まる政策が

はじまりました。

 

 

1616年(元和2年:家康75歳で亡くなる)

西洋諸国との交易を、

平戸と長崎の2港に制限し、

 

キリスト教の布教や関係者の入国を管理しました。

 

1623年(元和9年:大御所 秀忠45歳、将軍 家光20歳)

イギリスが、オランダとの争いに負け、

東・東南アジアから撤退。

日本との交易も終わりました。

 

1624年(寛永元年)

スペインと断交

 

1635年(寛永12年:家光32歳)

中国商船は長崎のみに

日本人の海外渡航禁止

在外日本人の帰国禁止

 

1636年(寛永13年)

長崎に出島が完成。

ポルトガル人を出島に隔離しました。

 

 

こうして、

海外との交易が限定的になっていき、

キリスト教への弾圧もはげしくなっていきました。

 

特に、

以前よりキリシタン大名が領主であった地域には、

キリスト教が深く根付いているため

 

弾圧を強める新しい領主とは相容れず、

なおさら、弾圧は苛烈になっていきました。

 

 

そして、ついに弾圧に対する反乱

島原の乱」が起こりました。

 

1637年(寛永14年:家光34歳)、

 

島原半島島原藩長崎県)から

天草諸島唐津藩熊本県)にかけての

 

領民が一揆を組織し

島原城などを攻撃した後、

原城に立て籠もりました。

 

 

幕府は、

深溝藩(愛知県幸田町)藩主の

板倉重昌(いたくら しげまさ:1588年〜1638年:50歳)を

総大将に、

約34,000の兵で鎮圧を図りますが、

 

鎮圧できないまま年は明けます。

 

1638年(寛永15年)の年明けに総攻撃を行いますが、

板倉重昌は討ち取られ、失敗に終わりました。

 

 

幕府は、

老中の松平信綱(まつだいら のぶつな:1596年〜1662年:43歳)を

2人目の総大将として、

12万を超える大軍で包囲し、

 

約1ヶ月半の兵糧攻めの後、

一気に総攻撃を仕掛け、

一揆を鎮圧しました。

 

一揆の蜂起から約4ヶ月、

原城籠城から約3ヶ月

経っていました。

 

 

 

幕府は、

この領民たちの一揆

 

キリスト教徒の一揆として位置づけ

禁教や鎖国体制の強化を進めました。

 

 

翌1639年(寛永16年)には

ポルトガル船の来航を禁止しました。

 

結果、西洋との交易は、

オランダ1国となりました。

 

 

1641年(寛永18年)

オランダ船の入港を長崎に一本化し、

オランダ商館を、平戸から長崎の出島に移しました。

 

Wikipedia

 

 

このような一方的な鎖国体制の強化を進めたことで、

西洋諸国からの報復を恐れた幕府は、

 

九州の大名に、

沿岸警備の強化を命じました。

 

特に海外との窓口である長崎には、

福岡藩の黒田家と

佐賀藩の鍋島家という

九州でも有数の石高の藩に担当させ、

外敵に備えました。

 

 

 

本文中には登場していないですが、

写真が載っていますので、

さらっと把握しておきましょう。

 

天草四郎」です。

本名は、益田 四郎 時貞(ますだ しろう ときさだ)

出生には諸説ありますが、

当時は16歳ほどだったようです。

 

キリスト教徒で、

島原の乱の、一揆軍の総大将となり、

一揆軍の中では救世主のように伝えられています。

 

 

次回は、鎖国体制下の4つの窓口です。

 

29夜目、四つの口 へ

 

 

 

27夜目、家康公の異文化受容

 

「家康公検定2022」の副読本で

お勉強しております。

のんびりと。

 

27夜目は、

 

「家康公の外交政策〜全方位、善隣友好〜」

5.家康公の異文化受容

です。

 

 

徳川家康は、

1542年(天文11年)に生まれ、

 

その翌年、

日本に鉄砲が伝来しました。

 

家康の生涯は、

日本と西洋の交流と共に歩んでいる

という面もあると言えます。

 

 

彼は、初めて出会う異国の人・文化・モノに対し、

受容の姿勢で接していました。

 

家康が残した品々からも、

そのような、

受容の姿勢が見えてきます。

 

 

久能山東照宮静岡市)には、

 

洋時計(詳細 17夜目、家康公の西洋時計

目器(めがね)

けひきばし(コンパス〉

鉛筆

などが、

 

紀州東照宮和歌山市)には、

 

西洋製の鎧に、手を加えた、南蛮胴具足(防具一式)

金唐革(きんからかわ:なめした皮に、金の西洋風の模様などを施したもの)

を使った陣羽織

革製の靴

などが、

 

日光東照宮や榊原家には、

 

西洋の鎧を模して製作された、南蛮胴具足(防具一式)

などが、

 

収蔵されています。

 

Wikipediaより 徳川家康所用南蛮胴具足(日光東照宮 蔵)

 

また、

交易で輸入された、

南蛮鉄

を使い、刀工の越前康継(えちぜん やすつぐ)が作った刀が、

残っています。

 

 

残された言葉の中にも。

 

「家康に 過ぎたるものが 二つあり

 唐の頭に 本多平八

 

この本多忠勝を讃える言葉に、

 

唐の頭

 

とありますが、これは、

かぶとに、外国の動物 ヤクの毛を飾り付けたものです。

 

当時は、珍しく、ひと目を引いたことでしょう。

 

 

織田信長豊臣秀吉に比べて

質実なイメージがある家康ですが、

 

これらのような残された史料から

 

異文化を積極的に取り込もうとしていたことを

うかがい知ることが出来ます。

 

 

次回は、江戸幕府外交政策の推移です。

 

28夜目、閉じられていく外交 へ