家康公検定2022 お勉強にっき

家康公検定2022に向けて、のんびりとお勉強しています。

12夜目、家康と太平洋航路(1)

 

「家康公検定2022」の副読本で

お勉強しております。

のんびりと。

 

12夜目は、

 

「家康公の外交政策〜全方位、善隣友好〜」

1.スペイン・ポルトガル

(2)太平洋航路の重要性

(3)スペイン外交の重要性

です。

 

 

南蛮貿易の当初から、

 

マカオからのポルトガル船や

マニラからのスペイン船は、

 

九州の港に来航したため、

島津氏(鹿児島)、大友氏(大分)などの

西国の大名に利益をもたらすものでした。

 

 

そこで、徳川家康が注目したのが、

 

スペインの太平洋航路

(マニラ・ガレオン貿易 1565年〜)

でした。

 

Wikipedia  白線がマニラ・ガレオン貿易

この太平洋航路は、

スペインの植民地である、フィリピンのマニラから、

黒潮の海流を利用し、

日本の太平洋岸を北上、仙台沖で進路を東にとり、

貿易風を利用して、太平洋を横断、

スペインの植民地である、メキシコのアカプルコを結びます。

 

「ガレオン」とは、ガレオン船

3本〜5本の帆を持った大型遠洋船のことです。

 

 

豊臣政権下、関東に封じられた(1590年・天正18年:家康49歳)

徳川家康は、

 

この太平洋航路の船を、関東の港に寄港させれば、

自分の領国で、直接貿易をし、利益を得ることができると、

 

三浦半島浦賀港を中心として、

スペイン外交を進めて行くことになります。

 

 

1598年(慶長3年:家康57歳)、

 

豊臣秀吉が没すると、

徳川家康は、直ちに朝鮮からの撤兵を行います。

 

そして同年、

 

フランシスコ会宣教師の、

ジェロニモ・デ・ジェズス と

伏見城で会い、

 

浦賀港での、スペイン商船との交易を求めました。

また、フィリピン総督にも使者を送りました。

 

しかし、

ジェズスの死後も、交渉は続けましたが、

中々進展しませんでした。

 

 

1600年(慶長5年:家康59歳)、関ヶ原の戦いの半年前、

オランダ商船のリーフデ号が、豊後に漂着しました。

 

オランダ人航海士の、ヤン・ヨーステン

イギリス人航海士の、ウィリアム・アダムス らは、

 

大坂城で、当時、五大老筆頭の徳川家康と会見しました。

 

徳川家康は後に彼らを江戸に招き、

彼らは、江戸幕府の外交顧問として活躍します。

 

二人は、表紙の船にも乗っています。

詳細は、後日にしておきます。

 

 

次は、スペインとの外交交渉、その2です。

 

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